「リンゴの唄、僕らの出発」(佐江衆一)

8月15日以降に焦点を当てた「戦争文学」

「リンゴの唄、僕らの出発」
(佐江衆一)講談社文庫

その日、戦争が終わった。
夏休みの終わった学校では、
教科書が墨で塗りつぶされ、
先生たちは「民主主義」なるものを
口にし始める。
家では父が狼狽し、
母は錯乱する。
自分のまわりで
何かが突然変わってしまった
感覚を持つ「僕」…。

文学の世界には
「戦争文学」というジャンルがあり、
名作がいくつもあります。
本作品が他と大きく違うのは、
戦争そのものではなく、
むしろ8月15日以降の
日常に焦点を当てていることです。

主人公・幸治は戦争中、
集団疎開先で
上級生からのいじめに遭います。
最も辛いはずのその時期を
回想で織り込むに留め、
親子四人で母の実家へと
身を寄せている二年半の出来事を
丹念に描き出しています。
胸を打たれるのは、
8月15日を境に
変節していく大人たちの姿に戸惑う、
幸治の少年らしい純朴さです。

教科書の墨塗作業。
天皇や軍国主義についての記述に
次から次へと墨を塗るよう
指示されます。
「先生の命令通り塗りつぶしながら、
 躰の芯がふるえて仕方がなかった。
 足の傷痕に痛みが鋭く甦って、
 その自分の痩せこけた躰じゅうに
 墨を塗りたくっている気がした。」

昨日まで信じてきたことが
頭ごなしに否定されることの
不安や恐怖、やりきれなさや悔しさが
滲み出ています。
純真な子どもである分、
なおさらでしょう。

でも、戦後の価値転換で
傷ついているのは大人も同じです。
いや、大人の方が
もっと深刻だったのかもしれません。
墨塗を命じたトシ子先生は、
自分に自信が持てなくなり、
次の春には職を辞します。
復員してきた忠雄叔父は、
空襲で妻子を失った悲しみから
逃れられず、酒を飲んでは
新妻に暴力をふるいます。
父はようやく就職できた役場の物資を
横流しした疑いで検挙され、
母は長男・共平を失った
悲しみに耐えきれず、
精神を病んでしまうのです。
そうした大人の悩み、迷い、
そして醜い姿をも、
幸治はすべて受け止めているのです。

しかし、本作品は戦争の暗さだけに
とどまってはいません。
思春期の入り口に入った
幸治の戸惑いをも
同時に描いているのです。
同居している静子への
恋心ともいえない淡い気持ちと
性への目覚め。
戦後の困難と思春期の揺れ動きが
同時に描かれているからこそ、
少年が体験した「戦後」が
真実味を強く帯びることに
なっているのです。

少年の目を通した戦後日本の姿。
中学校3年生に読んでほしい一冊です。

(2020.6.9)

PublicDomainPicturesによるPixabayからの画像

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